昭和52年08月16日 大祈願祭



 どうも今日はおかげを頂きまして、有り難う御座いました。今日は願いのお祭りで御座いました。お互い一人ひとり願いを持たない者は御座いません。ですからその願いをさせて貰う。ご承知でも御座いましょうけれども、お祝詞の中にも申しましたように、小倉の祖と言われる、桂大先生が御本部の御造営を思い立たれて、どうでも一つ九州から、御用材を献納したい。そこで神様にそういう願いを立てられました。その願いの筋が、願い方が素晴らしい。
 「飛ぶ鳥も翼なしには飛べません」神様にも喜んで頂けるような御用もさせて頂きたいのでございます、もうこれは止むに止まれん思いで、御造営の上におかげを頂きたい。その為にはどうぞ、何時までとか、又はこれこれとは状況もいれません。何時いつなん年間、向こう何年間九州全土の上に、特別の御比礼を、頂かせて下さい。九州の氏子に特別のおかげを下さい。その事によって飛ぶ鳥も翼なしには飛べません。
 お供えをしたいと思うても、おかげを頂かなければ出来ません。と言うちゃんと筋が立っておる願いです。只々ここが痛う御座います、ここが痒うございますというて、願うというのとは違う。始めは皆それでも、そこから入るわけですよね。様々な難儀な問題、人間の力ではどうにも出来ないというので、まぁ神仏に願うということで御座いますけれども、教祖様は御教えの中にも御座います様に、そういう願って来る、何にも分からない氏子の上には「願う氏子におかげを授け」と仰せられる。
 けれどもその授けっぱなしではない。その後には「理解申して聞かせ」と仰せられます。ですからそういう願いからお互い入るので御座いますけれども、信心が段々成長して参りましたらその同じ願い、恐らく一生私共が願い続ける事でしょう。いや又願わなければなりません。それは天地金乃神様の願いなのだからです。どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと。これが天地の親神様の切なる人間氏子に対する所の願いである。そこで願わせて貰う。ここではそこん所を「五つの願い」と申しております。
 何と言うても先ず第一に体の丈夫を願わなければいけません。もう体が基だと仰る先ず健康のおかげを頂かなければなりません。もう是は幾ら願うてもいいです。もう毎日毎日、私はもう御神前に出て柏手打ったら、もう必ずこの五つの願いだけはさせて貰ます。もうお前ごとそげんせからしかち神様は仰らん。何故かてそれが神様の願いなのですから。氏子が健康であってくれよと言う事は、神様の願いなのですから。その願いと願いがこう交流する。信心は家庭に不和のなきが基。
 いわゆる人間関係で悩み苦しむ。だから先ずは自分の心から、先ずは家庭内から、自分の周辺に和の心を育てていく。平和な心というものを頂かせて貰うと言う事。我情じゃない我欲じゃない。同時に家繁盛、子孫繁盛を願わなければなりません。私一代ではいけません。子にも孫にもそれが伝わっていく程しの繁盛を願わせて頂かなければならん。そして私共が、桂先生の御精神ではないですけれども、言うならば「飛ぶ鳥も翼なしには飛べません」。健康という翼を頂いた。財というおかげを頂いた。
 そこから身体での御用も出来ます。財の上でも御用が出来る。そういう願いに筋が立っておる。だから、もう度々お願いばっかりしてからというのではありません。もう願わなければいけません。それは神様の願いなのですから。そんならいっちょ今日から願おうというて、ならもうそれこそ神様の前に逆たんぼを打つ様にして、なら願うてもそのおかげが頂かれない。筋が立ってないからだと私は思うです。
 合楽ではまぁ色々に、ような表現で、お互い信心の稽古を、まぁこちらへ参りましてから、10年間させて頂きました。始めの間はもう「限りなく美しゅうなりましょう」。表のあの看板の裏にそれが書いてあった。もう合楽の者の合言葉であった。どんな問題であっても、もう限りなく美しゅうなりましょうやと言う所には、問題が即その場で消える。汚い心。我情が我欲が問題をうんでおるのです。だから問題を問題としよったら、返ってややこしゅうなりますからね。
 だから問題はその場で消える程しの信心。それは限りない美しい心。限りなく美しゅうなりましょうやということなんです。限りなく豊かに大きくと言う様な、スローガンの時代が御座いました。段々おかげを頂きまして、いわゆる和賀心時代を創るという、創るは創造ですかね。あれは5年祭の時だったでしょうか。ここの五年の記念出版に、私が青年教師の方達に二日間お話を致しました、そのお話をそのまま御本にしましたもの。「和賀心時代を創る」です。
 えらい大きな事の様ですけれども、矢張り願いはそこにおかなけばいけない。為には先ずなら私が私の家庭にその和賀心が広がっていかなければならん。言うなれば光輪の和が広がって行く。光の和が広がって行く。ここ一、二年はあの看板に「合楽示現活動に参画」という、言うならばスローガンの基にお互い信心を進めて参りました。合楽示現。合楽というのはね、先日○少がここから沢山参りまして、丁度去年参りました倍の人数に増えておった。楽器もそれぞれ70名からの○少ブラスバンド。
 もうそれは今日あの写真が出来てきておりましたが、もう私は見てからもう、びっくり致しました。ここでは全然見なかったんです私。久留米のあの、久留米祭りの時にもここの○少が出ましたけれども、それもあのどんな事をしたか知りませんでした。今朝からその写真が沢山出来てきとるのを見せて頂いて、矢張り素晴らしい。もう合楽の○少が通りますとどぉんとその、あれは観衆が集って見える。ここから修行生の先生方も2、3人付いて行って、それを見物しておりました。
 所がその合楽というあのプラカードを持って、そしてのぼりを立ててそののぼりに何と書いてあるかというと、合楽示現いや「合楽理念の確立」と書いてある。そりゃまぁ御本部でそんな事したもんですから、やっぱりビックリされる方もあったでしょう。丁度梶原先生が、そうして見ておる時に、大体合楽理念の確立ちゃどげな事ですかち。いうちから聞きよんなさった。そしたらねその人答えていわく、あれはね合楽教会と言う事じゃないんですよと。
 合楽の先生が合楽と言われるのは、いうなら御道でいうならば、あいよかけよの精神であり、それよりかもっと唯言うならば、拝み合うと言うだけではなくて、神様と喜び合える、交流するという意味なんです合楽とは。ですからここの知らない人は、合楽の大坪はもう自分方の教会の事ばっかりいう、と言う様な批判があります。けどもそれが段々しかも全然知らない人がね、そういう説明をしておったというので、帰って来てからそれが大変嬉しかったというて話をしております。
 と言う様にです悪名も津々浦々に広がっておりますけれども、そういう意味でもだから津々浦々に広がって行っておると言う事です。だから金光教の信心の中に、合楽理念の確立が出来るようになった時が、私は愈々いうならば御取次ぎ成就信心生活運動が、本当の意味で新たな、言うならば展開が見られる時だという風に思うんです。だから今申します、だからねその時その時点、時点での信心が本気で出来なければならない。今にして思わせて頂くと、「限りなく美しゅうなりましょうや。」
 というのは訳は分からんなり言いよったけれども、それが天地の心である、取分けて天の心であると言う事が段々分かって来た。神様の心を心とする、そげな難しい事は出来んと言う事はないのです。神様天の心というのは、もう限りなく無条件に与えて与えて止まないという心なんです。無条件真心とは真とは、美しい心麗しの心を持ってです、もう無条件にです、私はあの人に真心で尽くしたけれども、一つもその反対に逆恨みどんさっしゃる、と言った様な事を良く聞きます。
 それはあなたのは真心じゃなかったんです。真心にはそういう相手が喜ぼうが、喜ぶまいが、反対にそれを腹立てようがです、そう言う事はもう無頓着無条件。天の心とはそういう無条件の心で奉仕をする。無条件の心で人に接していくという、言うなら限りなく美しゅうなろうと言う事が、天の心の稽古をあの時分に一生懸命させて頂いたんだなぁと思うんです。私共が自分の心を覗いて見ると、本当に汚い汚い心が一杯御座います。だから、そういう汚い心を、美しゅうしていくという、その手立てがね。
 私共が我流ではいけません。それをね分かりやすくしかも楽しく、嬉しくそれを美しゅうなって行く事に、精進させて頂く手立てが合楽理念にはもう細かに説いてあります。それからこれは私が、言うならもう二十数年三十年間近く、もうこれは私の行と思うてして来た行でした。それが改めて分からせて頂いた事は、それが地の行であったと言う事を今分かるのです。地の行というのは大地の行。大地はもう黙って受けて受けて受けぬく心。「言うて聞かせてして見せて褒めてやらねば。
 誰もせんぞい」と言った様な事を、金光様の御信心の様に思うておったけれどもそうじゃない。言うて聞かせたって言うて聞かせた時だと。本当の自他共に自分が力を受け人もおかげを頂くというのは、黙って治める事なんだ。さんずい偏に無口と書いてある。さんずいを自然というなら、自然の働きそのものを無口で受ける。此の頃も朝の御祈念に頂きましたのが草冠に重いという字を書く。そして点々を打つ。是は薫りという字になります。草冠と言う事は、いわゆる自然と言う事。
 自然の働きそのものを重んじると言う事。その自然を重んじる心こそが、地の修行で御座います。息子がどんなに言う事聞くまいが、目に余る様な事があろうが決して言わない。目にあまるようなものが見える時には、あれは私の中にあるのだと分からせて貰う。あります。もうこれはもう本当に、それはなんというでしょうかね、黙って治めると言う事のおかげは、もうあの言いようがないほどの素晴らしいおかげになっていくのです。そしてそれを今合楽理念の確立と言う様な事を盛んに言われております。
 その合楽理念の中にある、「天地日月の心になること肝要だ」と、教祖が教えておられる、天の心を自分の心とし、地の心にならせて頂く精進を、一生懸命にさせて頂くと言う事。愈々もって心は豊かになる、愈々心は大きくなって行く。だからおかげも豊かに大きくなって行くという道理です。真の信心というても私の信心は真の信心だと、例えば言うても、それに真のおかげが伴わないならば、それはちょっとおかしい。受け物が出来たら、受け物いっぱいのおかげが頂けれるのが理の当然です。
 そこで真の信心の追求というのは、言うならおかげという実証が、なからなければなりません。これは形の上に、自分の心の上に現われて来るものなんです。真の信心「信心する人の真の信心なきこと」もう金光教の信心以外に真の信心は、もう断言して言えれる事はないです。二、三日前のご理解に「信心する人の真の信心なきこと」という御理解を、新しい角度から頂いてから始めてそう思うた。前の晩遅うもう12時頃でしたでしょうか。何々教授という方がインド仏教。
 いやインドの仏教哲学をまぁ分かりやすく話しておられましたけれども、私共の様な頭ではとてもとても分からない。しかもそう言う事を極めていかなければ、仏教を極めるということは出来ない。そしてその上生臭気も食べちゃならん。坊さんになんなら今頃は違うですけれどもね、いうなら女子も寄せ付けちゃならんという。とてもだから是はどんなに素晴らしい教えであっても、人間の頂く信心じゃないと言う事が言えます。
 先日ビリグイから参りました手紙の中には、所謂キリスト教の先生を目指させて頂いて、非常に学問の出来た方だそうです。そして所謂カトリックの進学を勉強しだした。そして長年勉強しても勉強しても尽きる事がない程に難しい。そして是はもう自分は自殺をするより他にない、と言う所になった。そんなに難しいです。本当にその信心を自分が身に付けようとすると、難しいものらしいです。
 私は知りません、その研究した事もないですから。けれどもやはり思うんですけれども、もうぶどう酒だけしか飲んじゃいけん、とても焼酎やら、日本酒やら飲んじゃいけん。そういう戒律があるんです。だから本当に言うならばキリスト様が言われた事を、自分のものにしていくと、結局は助からない、もう原罪というそれに行き当たったが最後、もう助かりようがない。良いですか、病気が治ったとか、金儲けをしたとか、そんくらいなおかげは頂きましょう。そりゃキリスト教は奇跡の宗教だといわれる。
 仏教は言わばそのお釈迦様は哲学を、と言われておる位ですから。そりゃ様々な奇跡もだから奇跡がうまれると言う事だけが信心じゃないのです。人間が誰でもなそうと思えばなされれる信心。私は教祖様のご信心の愈々素晴らしい所はです、ここだと思うです。立教神伝の中にも御座いますです。四十二歳の御大患の時の事を天地の親神様が、いうならば示して仰っておられる「あの時死んだと思うて、欲を放して」と仰る。
 「家内は後家になったと思うて」ね「後家よりもまし、相談もなり」いや、話し相手にもなって下さる事が出来るという。この辺の所が中々意味慎重でしょうが。それが金光教の信心なんですね。問題は「死んだと思うて欲を放し」と言う事は、例えばその女を寄せ付けてはならないと言う様な御教えではない。その後においても、立教神伝を受けられて、お子様がお出てになっておられます。物言われ相談もなっておられるのです。もう金光教の信心の素晴らしいとこはそう言う所だと思うです。
 極めようとすれば、とても人間業では出来ない。そういう私は信心はです、言うならば教祖が教えられる所の「信心する人の真の真心のなきこと」と言われるのは、だから私が今申しましたような一つの枠と言った様なものから、はみ出た宗教はだから言わば真の信心じゃないと言う事になるです。なら金光様のご信心を頂いておりましてもです、難しい事はそれはその時、その時の時期時期と申しますか時代と申しますか。
 お道の信心が始まって118年間元を取って道を開かれた方、先覚先輩の先生方は、大変なご修行をなさってお道を開かれた。それこそもう何というですか、生命をはめて御祈念をなさった。所謂御祈念力で人がどんどん助かる。霊徳を受けられて、先生からさすって貰うたら、もう病気が治った。と言う様な言わば過去に様々な信心がありましたけれども、愈々教祖の神様のみ教えに基づきますとです、表行はしてはならない。もう此の方の行は心行一本だ。「表行よりは心行をせよ」と仰る。
 表行をするな心行一本にせろ、とは仰っていないけれども「表行より心行をせよ」ということは、例えば皆さんが仏教をしておられると、仏教を頂いておられる。なら仏教より金光教をせよと言われたら、ならその仏教を止めなければいけないでしょう。仏教より金光様がよい。金光様の信心がよいというのだから。私はこうやって皆さんに、まぁ色々聞いて頂いて、限りなく美しゅうなり豊かになる大きくなる。
 愈々和賀心時代を世界にしかせて頂くほどしの為に、先ず自分の心の中に和賀心を頂く精進をさせて貰う。合楽いうなら示現活動に参画する。それまでは合楽ではお導きと言う事を言わなかった。もうそれからまぁ言葉が大きいですけれども、それこそ渺遠の火のごとく広がっていった。最近ではもう本当に全国津々浦々から、合楽合楽というてまぁ見に来り勉強に来りする人達が出来て来た。
 遠くは南米にまでおかげを頂いて、その御比礼が立ち始めた。度々の手紙にまだ三ヶ月の間に、十何通の手紙が来ておりますが、どの手紙をみましても、海外布教は合楽理念にまつより他にはないと言う事を書いております。私は今日お祝詞の中に前代未聞と言う事を、言葉を申しましたが、確かに金光教が始まって118年前代未聞であります。それは成程参りまして十日間あまりというものは、誰ぁれも参って来ない。
 第一信者がおらんのだから。そこに教会とあったそのお付き合いの方達が、こう参って来なさると言う事だったけれども、先生が行ってからこの方というものは、誰も参って来ない。まぁ行ったばかりでまぁ一生懸命の、まぁ弾みと申しましょうか。二日、三日、四日、五日と。所が子供がね二人の子供が帰る帰るち、もう泣き出した。もうこれにはもう夫婦でもうことごとく困った。
 とにかくあの家内が公子さんて言いますが。公子これはもう俺とお前が神様にお願いする他にはないぞち。というて二人で一所懸命御祈念をさせて頂いた。そしたら今までね、帰る帰るというて泣いておった子供が、行こう行こうと言う様になった。もうその時に、もう付いた物が落ちるように、切ない、誰もお参りはない。子供が帰る帰るちいうて泣くと。その時にねしかもそう相談にいくとこも又誰も知らん、ちょいと表まで出りゃもう毛色の違った人ばっかりなんです。
 おかげを頂いていうならばその子供達の上にもそういう段々おかげを頂いて、帰る帰るが行こう行こうと言う様になって、段々治まって来たかと思うたら、今度はそん時に手紙をよこしております。公子が今度は泣き出します。もう三日間泣きます。帰るち。もう是にはもう私もほとほと困った。私はその手紙を見せて頂いた時に、公子さんがお母さんあてにもうこちらではもう、あれも送ってくれこれも送って、あれもないこれもない。もうとにかく大変な所だというて。
 まぁ言うならば難儀な様子を書いて来ておりましたから。お母さんがここへ手紙を持って来ました。はぁそげん難儀しとるなら、ならなんか送ってやらじゃこて、とまぁ人間心で思いましたけれども、御神前に出てお願いさせて頂いたら、いや此処で私が人間心を出してはおかげにならんと思ったから、私はその事を明くる日の朝の御祈念に皆さんに聞いて貰うた。こりゃもう絶対送ってやらんぞと決めたお話しを、三十分間に渡ってお話しをした。それを私が西岡先生にいうて。
 三十分間の御理解をずっと書いてから手紙で送らした。先生が毛筆で素晴らしいその字で書いて送られた。丁度翌日はサンパウロ教会のご大祭であった。祭主を務めてくれということで御座いましたから、祭主を務める為に夜行であちらにとにかくバスで8時間掛るそうです。その8時間かかる所へその、お祭りを仕えに行った。所が明くる日があちらの先生のご主人の弟さんの、式年の霊祭をしなければならんが、末永先生もう一日おって、その霊祭も仕えていってくれとこう言われる。
 だからその霊祭もならおかげ頂きましょうというて、二日間空けた。所があちらの新聞社が、その金光教がこうやって南米に来たと言う事を、挨拶に回らないかんと言う事になって、けどもそれは何かの都合で一日おいて、その新聞社に行かなければならない事であった。けれどもその一日がです、なら末永先生としては、もうとにかく待ち遠しい、とにかく神様が待って御座ろうごとして、待って御座ろうごとして堪えんじゃった。それでとうとう、夜行で帰って来た。
 そしてねその時に初めてそれは丁度ここでは、13日会13日とは神の願いが成就する日として神、皆さんも大事にされますように、13日の朝方あちらへ付いた。そこに一人のブラジル人の方が参って来ておった。参って来たと言う事よりもまぁ言うならば、どう言う事でしょうかね。まぁ言われる事がこう言う事を言われる。先生あなたは私の言う事が分かる私の思うておる事が、分かりますかというて言う。
 そげな事は分かる筈がない。神様じゃないから。先生がここで十年間修行しましたけれども、霊徳には非常にうとかった。神様のお知らせを頂くと言った様な事は、皆さんもご承知のように、あぁいう目の詰まった修行をしておりましたけれども、返って家内の公子さんの方が、時々神様からお知らせを頂くと言った様な事はありましたけれども、始めてけれども一生懸命ちゃ、私は本当素晴らしいと思いました。
 もう初めて参って来たその外人に、ただで返したんじゃならん。折角神様がお引き寄せを下さったんだから、なんとかこの人の合点が行く様に、答えなければならんと思うて一生懸命神様にお縋りした。そしたらねご心眼にぶどうが腐って今にも落ちそうになっておる所を頂いた。もう嬉しかった始めてご心眼を頂いて、今ねあなたの事をお願いさせて貰うたら勿論通訳を通して、隣りの日本人の方に通訳をして貰うての事です。
 ぶどうが腐って行く所を頂いて、もうこの頃このまま腐って行ったら、心は腐るに腐って行くでしょう。けれどもね是を例えば壺に入れてそして水をくんで、上から蓋をしてこうしておくと、それこそ有難き勿体無き、畏れ多きじゃないけれども、アルコール分が出て来て、返ってその事腐る心によって有り難い心になれれますよ、というしたらもうその外人の人が涙をボロボロ流して喜んだ。
 先生あなたがいう通りの事で、実はあの難儀で御座いましたとこういうのであった。○○中学の校長さんであった。ところがある問題で、もうどうにも出来ない事で、もう悩みに悩み、苦しみ抜いてその金光様に初めて参って来た。それからというものは、毎日お参りをして来る。奥さんも一緒に参って来る。そしてもう自分の知った人達をどんどん、どんどんお導きはして3人、5人。もう一ヵ月目ぐらいの時に、あちらで月次祭を仕えますと、お広前が4人がかりの、20、4人がかりの幾つじゃったの椅子は。
 もうだから4・6=24、4人しか掛けられん。だからそれがもう足りませんからね、その座ってそれからあのご大祭を仕えた時にはかけだしを致しました。そして日本人の人達が半分以下で、半分以上は黒人があり白人があり、ブラジル人があると言う様な事であった。一生懸命お話しをしとると、言葉が分からんのだけれども、涙を流して話しを聞いて下さるから、話しに思わず力がいるというております。そして助かって行く訳です。もう倒産寸前であった店が、もう不思議な不思議な働きによって助かって行く。
 もう癌で見放した。それが皆ねあちらの宗教化の方達が参って来る。PL教の外人の方で、PL教の先生を十年間もしたという人がPL教じゃ助からん。行き詰まっておる所にたまたま来てその話しを聞いて参って来た。そして合楽理念を聞かせて頂いてもうビックリしたんです。こういう助かり方こういう言うならば教えがあるんだ。こう言う生き方があるんだ。今までして来た修行は嘘だったんだと。間違っておったんだと言う様に悟って来て、それからキリスト教の信心をする人なんかがまぁ次々変った人が。
 弁護士の人が参って来る。お医者さんのお母さんで、もう不治の病で休んでおられた方が、それこそ車に乗せられて参って来た。おかげを頂いて歩けるようになった。もう近代医学ではどうにも出来ない、そう言う様な人達がどんどん助かって行くもんですからね。成程日本人、偉い先生方がね、アメリカにもいくらも出られました。ハワイにも出られました。けれども、それは皆日本人が対象なんです。
 十里ばっかり離れた所に、天理教の南米本部というのが御座いますそうです。なんかの宗教関係の事を聞かなければならんので、そこへやらせて頂いて、色々と話しをさせて頂いて、とにかく外人が助かっておるということを聞いて、もうビックリした。今年はここの、天理教本部がここに出来てまる五十年になりますけれども、現地の人が参って来るということは一遍も有ませんとこういう。和賀心時代を言うならば世界に。私共修行生が今何十人おりますが、アフリカ行きを頂いておる人が有ます。
 台湾行きを頂いておる人が有ます。ヨーロッパ行きを頂いておる人が有ます。ですから、私がいうておる事が言うならば大きな事ではなくて、言うならば夢ではなくてです、それが段々実現していっておる。親先生あなたのは、特別ですよと言う人が有りましたけれども、ならビリグイの地で、そういう僻地と思われる、言うなら所でです、勿論日本人は丁度ここの、合楽部落ぐらいの人数しらおらないそうです。ですから行く時から、結局日本人が対象じゃない。現地の人が助かるんだ。
 とにかく南米。まぁ言うならばブラジルの、言うなら人達が助かる。ブラジル国の繁栄を願い。ブラジル国の平和を願っていかなければならない。これが私があちらに参ります時に、まぁ言い持たせました事で御座います。それがその通りにです、丁度あちらに参りまして十日目から人が助かりだした。それもビリグイに、サンパウロへいってです、もう一日泊まって、いうならばね、その8時間も往復16時間もかかっております。大概な者は待っとくだったでしょう。
 けれども神様に対する所の、道念心とでも申しましょうかね。神様がもう待ってござろうとして、待ってござろうとしてこたえん。その心で帰って来た。帰って来た時に初めてまいって来たのがその、中学校の校長さんという人であった。今日はその二人の夫婦が、移り変わりに見えて、先生に毎日ブラジル語の先生になって下さる。教科書も向こうから持って来て下さる。最近ではあちらの青年学生会で。今日のあの電報、長い長い電報がまいっておりましたが、是は末永先生があちらへ行くようになりまして。
 丁度ビリグイの方からあちらの大学に行っておる人達が、末永先生言わば合楽から末永という先生がくると言う事を聞いて、集まって来た。親達は金光様の信心をしておった、と言う様な人達なんです。もう懐かしさいっぱいで皆が集まって来て、とうとう学生会が出来ると言う所までなった。昨日の手紙には天津祝詞と大祓いを、あちらの言葉と、英語で、あちらポルトガル語ですかね。と英語で翻訳というかあちらで大祓いやらば翻訳て、どげん、出来るじゃろかと私は思いよったです。
 高天原にどげな風に翻訳するじゃろうかと思いますね(笑い)。して先生が言うておる事がね、もうとにかく大祓い信行によらなければならない。大祓い信行によって、神様が活き活きとして見える。その活き活きとした神様へ、栄養失調になって御座る神様にいくら逆たんぼ打ったっちゃ駄目だ。先ず神様に御神飯を奉るような気持ちで、大祓い信行は無条件であげなければならないというのが、ここでいう大祓い信行なんであります。毎晩ここに今12時頃来て御覧なさい。
 もう修行生の人達がもうここが割れるように、一生懸命大祓い信行をやっています。神様がいよいよ活き活きとして見える。いや神様だけが活き活きしてみえるのでなか、自分の心の中の神も又活き活きとして来たと言う事で御座います。生きたものと生きたものが出会うから、おかげになるのです。改まらにゃと言うても中々改まれないけれども、自分の心の中に活き活きと有難い時には、不思議に改まる事が出来るんです。
 今度はだからそのこの頃4、5日前手紙が来たのは、末永先生から来ましたけれども、皆こっちがその勉強しとらんもんですからね、そのローマ字で手紙が書いてある。ローマ字でちゅうかそのね読めばやっぱ日本語にこうなる訳です。だから高橋さんに読んで貰ましたらその中に書いて御座いました。今度ここの青年層の方達、又は宗教に関心を持っておる人達が、合楽理念をまぁ垣間見的な聞き方だけではでけん。
 どうでもこれを、南米の人達に、どうしても徹底させにゃいけないというので、その翻訳をしようという相談がまとまって、その事の事業。いうなら私にとっては大事業。その大事業に取り組む事になりましたというのが、参っております。ここではもう口を開けば合楽理念。合楽理念とはどう言う様な事か。もうそれこそ教祖の神様のみ教えの総てが言うならば、教祖の神様の言うならここに教えがある。それに私はまぁ分かりやすく言うならね、最高に美味しく味を付けたものだと思うです合楽理念とは。
 しかも絶対のと言えれる程しのものだと言う事です。この道を行けばもう必ずおかげを受けられる、お徳が受けられるというのです。この頃ある新聞に若い先生が書いてありました。こうやって信心はしておるけれども、修行はしておるけれども、果たしてこれで行き付く所に行けれるだろうかと、時々不安になってくると言っております。指し示したものがないからです。この道をいけばもう絶対の生神金光大神への、いうならば道に繋がって行くんだと言う事がです。
 しかもなそうと思えば誰でも出来るように説いてあるです。しかもねなそうと思えば子供でもなせる様な事を、私共が今まで疎かにして来ておったと言った様な事がです、私の体験を通し、皆さんの体験を交えて説いてある。先日壮年決起大会の時に、竹内先生が講師でお話しをなさっておられた。前半を合楽理念を、言うなら先生学者ですから学問的に説かれた。この様に素晴らしい事だと合楽理念とは。なんとかの双方性原理か相対性原理か。なんかそう云う言うならば原理に基づいて合楽理念を説かれた。
 ほう是はやっぱ間違いなかばいなと、私も聞きながら思うた。後半の事を言うなら先生が言われる合楽理念の、成そうと思えば子供でも成せる様な事を、実行しておる事を、色々と一日、一日それを行じ実行しておられる事を目が覚めて、御用を終わられて。伊万里市長という官職にあって、そして自分の市長室の前には、親先生にお書き下げを頂いた「寛」という字が、あの色紙に書いてある。私が参りました時もそこに書いてある。そのありました。寛という字はウ冠に草冠が書いてあって見ると書いてある。
 ウ冠と言う事は宇宙の宇である。草冠は自然。天地の親神様の全てを働きと見るという意味なんです。そこに寛大な心。大きな心が生まれて来るんだという御理解付きであった。それをこの頃からねそのそれを、まぁ眺めながら入って来る人達を、皆神様と思うて拝んで受けて、まぁ対処させて頂いておると言う様なお話しがあった。最近はその前にこちらのご信者さんが、親先生に書いてもらったものをというて、送ったそれに替えられてある。それには「心一つで総てを創る」と書いてある。
 今はそれに取り組んでおるというのです。これは何ヶ月か前の月次祭の時でした。福岡の東さんのお母さんが参って来た時。それからまぁ忙しい時でしたけれども、私ご心眼に頂くとが、その心一つで総てを創ると書いてあるとをね、こうこう見らにゃんそげん書いちゃるとば、それば反対にこうやって頂いたんです。だから私その時にはっと思わせて頂いたんですけれども、ははぁ心一つで総てを創ると言う事と同じに、それが反対の事になったら、「心一つで総てを崩す」事になるんだなぁと言う事で御座います。
 末永先生が例えば神様へ思う所の、その憧念の心がです言わばその一夜を掛けて帰って来た。帰って来た頃に参ってきておったのは、言うならば合楽に参拝者が出来るもとを作ってくれたその中学校の先生であった。あれがもう今日一日ぐらいもうこっちでサンパウロの方の見物どんしようちゅうごたる風だったら、もうどげんなっとったかまだ分からないです。もう本当に心一つでね壊しもすれば創りもすると言う事なんです。折角こうやって出来上がって来よるとが腹立てた為にちゃんと崩れてしまうというのです。
 もう腹立てるくらい馬鹿らしか事はなかですだから。そこでなら結局一切を有り難い、有り難いで受けていこうというのが、私がなら椛目時代からあの他にもう修行がなくなったもん。水かかる火の行水の行もさせて頂いた、様々な行もさせて頂いたけれども、どうもおかげにならん。もうそこでねそこでなら私の上に起きて来る一切の事を、黙って受けようと言う事にならせて頂いた。
 そりゃなんの事やら分からん。ただ修行と思うて、それに徹底させて、させて頂いておるうちに、それが天地の親神様のお心であると言う事が分かった。これを行ずると言う事が真の信心であると言う事が分かった。私の上に起きて来る、様々な問題が、神様が私に求めたもうておった修行であった。その修行を私がまともに受けて、有り難く受けて行くもんですから、どんどん人が助かるような働きにもやっぱやって来たわけ。だから信心はね、そこに徹する事。徹すると言う事になると、難しい事ではない。
 楽な事は行ずるけれども、難しい事はご免蒙ると言った様な事ではいけん。昨日の朝の御理解の時に、ご心眼に綺麗な蓮根を頂いた。蓮根のこの節がありますね、その節の所だけを切って捨てる所を頂いた。神様が蓮根食うておかげを下さる。今日は言わばお願いの願いの祭り。だから確かにね、もう一生懸命お願いをすると一生懸命お願いしただけでも、又祈念力の強い人なら祈念力ででも、おかげを頂きます。それはねもうあんまり願うから、神様が、いうならば蓮根食うて下さっておかげを下さる。
 毎日毎日熱心に参って来る。改まりはいっちょんせん。磨きもせん。ただ参ってくるばっかり。ほんなもう話はどこんで( ? )あの、いっちょんその勉強はしよらん。それでもやっぱ毎日参って来るけん、やっぱおかげを下さる。あれは神様が蓮根食うて下さりよるおかげです。いや神様がね下さいと言わんでも下さるおかげ。最近教団でね言うならば生みなす信心と言う事が言われます。生みなして行く信心。それは私と神様の間の中から生まれて来る所の、おかげじゃなければいけません。
 鐘がなるのか撞木がなるか。鐘と撞木の間がなるという音色なんです。これが生みなされていくのです。鐘だけではどうにも出来ない、撞木だけではどうにも出来ない。そこにそれが触れ合った時に音が出る。その音色が素晴らしい。合楽とはそう言う事なんです。合楽理念を愈々マスターする。合楽理念を愈々自分のものにする。手近かな所からそれこそ竹内先生じゃないけれどもお風呂へ入ったら、親先生は湯桶半分と言われるから、私もこれを実行しておりますとこう言われる。
 風呂からあがったらタオルはこうやってかけて、そしてこっとこう渇いた時にはもう、のりつけたごと綺麗になった。上がって来る時には石鹸をこうやって、もうあれはタオルで拭きよったら勿体なか。
  (テープが切れている)
 下駄が綺麗に揃えてある。後から入って来る人が、矢張り気持ちが良い。そういう心使いが心行なんだ。そういうやろうと思えば子供でもなせるような事から、入らせて頂いて皆合楽で、そのおかげを頂いておる人達があります。そこから段々もう少しは、言わば難しい所の、ですから色んなどういう問題であってもね、合楽理念を紐解けば、ここはどうとっていかなければならないかと言う事が書いてある。
 字引のようなもんだ。しかも教祖のみ教えでいっぱいなんだ。しかもその教祖のみ教えの頂き方が素晴らしい、それこそ味わいに、味が付けてある様なものだと。そして誰でも頂けれるものだと。合楽理念とはどう言う事かという、教祖の神様の言わば御教えを一生懸命行じていっておる内に、その頂き方がその教えの頂き方が、もう誰でも頂けれるように辛い物が好きな人には辛い味をつけ、甘い物が好きな人には甘い味を付けて、そしてこういう頂き方をしなさい、と説いてあるのが合楽理念です。
 もうこれはもう合楽理念を頂く限り、どうでも一つ合楽理念の行者というと大変厳しいようですけれども、酒は飲んじゃならん女は寄せ付けてはならない、と言った様な厳しい事ではない。私共が本気であの世この世を通して助かって行こう。言うなら力を頂こうお徳を受けようという信心にならせて頂いたら。それこそ楽しゅう出来れる。嬉しゅう出来る。もう必ず体験が伴のうて来るからそれが段々分かって来ると、天地のリズムが聞こえて来る様になる。
 そのリズムに乗っての生き方が出来るようになったら、信心が愈々愉快なものであると言う事が分かって来る。信心をどうでもね、愉快なものにしていかなければなりません。それこそ○○さんじゃないけれども、息子が言いよるもう伯母さん、あんたばっかりはもう合楽合楽ち言うちから、参るこつばっかり参ってからちいうちから、あたしゃ好きで参りよるとじゃなかばのっち。いうちから言いよる。隣りの人が聞きよった。ほう隣りのおばしゃんな好きで参りよってっじゃなかばいのち思うたち。
 あんたどんが為あたしゃ参りよるとばのち。そうまぁ言いながら参って来御座ったという話しですけれどもね。これは笑い話しじゃなかほんなこつ。自分の心の中にもね、本当にこの難儀があるばっかり合楽に参りよると、と。というのじゃなくて、始めはそうでしょう。けれども私が言う事を聞くならばです、必ず楽しゅうなって来る、有り難うなって来る。しかも愉快になって来るというのです。だから言う事を聞かん子は仕方がない。何時まっでん蓮根くうてもらう程度のおかげですから。
 それは言うならば神様に借金になるようなものでも私はあろうかと思うのです。合楽で皆さんがおかげを頂いて助かっておる。ありゃもう親先生のありゃもう専売特許じゃないのです。それを言うなら私の言う事を聞いて、そのままにビリグイの地でそれを実証していっておるのが今のビリグイ教会であります。ですからやろうと思えば出来ん事はないです。私も心が大変言うならば気強うなった。私の言う事を本当に行ずれば、あぁいうおかげにもなると言う事が分かった。
 そこで私が言う事は聞かにゃ詰まらんと言う事になって来た訳です。私の言う事がそのまま、生神金光大神に通うのであり、それがそのまま天地の親神様の心に通うのであり、何故かというと、その芯になるものが和賀心であり、芯になるものが天地日月の心になること肝要であるという、いうならば難しい様な事をです、もうあらゆる角度から、誰でも入っていけるように説いてあるのですから、天地の心を自分の心にするというのですから、神様と通わない筈がない。
 そのルートを辿っておかげが生まれて来る。私は生まれて来るというのは、そういういわゆる是とこれとの、間の中から生まれて来るという。それには一つの過程として私が「善導寺」でお導きを頂いた。善導を受けたそれが有り難い勿体無い「勿体島」になった。有り難い勿体になって来たら「椛目」の里に人がどんどん助かる様になった。椛目という所は木偏に花と書いてある。心に信心の花を咲かせる所だと、椛目では言われておった。そしてそれを常に持ち続ける所が「常持」であった。
 だからここまではまぁ色んな宗教でいうでしょうね、もうちょっと極楽喜びをずっと常に持ち続けておるのですから。もうあたし位極楽なもんななかろうと言う事になるけれどもそれでは金光大神の信心。合楽理念には悖るのです。もう直ぐそこに合楽が見えておる。そこに神様が待って御座る。神様と氏子があいよかけよでそれこそ神様が氏子のおかげで、いいえ神様あなたのおかげでとお礼の言い合える仲が生まれて来る。
 そこから交流が始まる、そこから生みなされて来る所のおかげが、今「合楽」で現れておる所の、まぁ奇跡と言われておるおかげであります。最近新聞が丁度一年間、あの合楽だよりが出て、あの奇跡シリーズというのが出ておりました。今度で終わるというその翌日でしたでしょうか。合楽には奇跡がないという御理解を頂きました。合楽の信心が一歩前進して、本当の物になって来たと言う事なんです。今まで奇跡と思うておったのは、あれは当たり前であったと言う事。
 「信心してみかげのあるを不思議とはいうまじきものぞ」「信心してみかげのない時は、是ぞ不思議なる事ぞ」という信心が出来て来た。どういう例えばならおかげを頂きましても、それが奇跡ではない、当然の事なのだと言う事で御座います。合楽の信心が一歩前進したような感じであります。だからその当然のね言わばおかげを頂く為には、矢張り手を腕こまねいておるだけではいけないということ。
「おかげは受け徳、受け勝ち。」と仰せられるがここに置いたら、皆んなゴロゴロ持って行く、そげな事じゃないです。この頃から月次祭ん時に、下駄が2足もなくなっておる。自分のはいたつば、又持ってかいった人があるじゃ、よもやそげな事はなかろうばってんですね。それこそ「おかげは受け徳、受け勝ち」で持ってかえっちゃるとかも分からんです(笑い)。だからそういうことではない。もう徳を受けた者が勝つと言う事なんです。例えていうならばこんなお知らせを頂いた。
 「魚釣る人見ておる人」と頂いた。魚釣る人見ておる人。筑後川の様な所で川の中に入ってから長靴履いて。そしてこう鮎か何か掛けよんなさるような、ご心眼を頂いてそれをちゃんとこうやって土手の方から、堤防ん方から見ておる人がある。そして魚釣る人見ておる人。言わば魚を釣っておる人に、神様がもう今日五匹も釣ったけんで、止めとけとは仰らんのです。もう自分が釣ろうと思えば、何匹でも何匹でも釣りあげる事が出来るのです。そして大小を求められんのです。
 これが天地の親神様なんです。けれども矢張り自分がね、竿の用意もしなければならない、川の中にも入らんならん、餌の用意もしなければならない。そしてなら必ずしも度々に釣れるということではないけれども、じっとその浮きを眺めておる時にです、釣り三昧の境地も又開けて来る。置いたもの取るごたるおかげばっかりと言う事じゃないけれども、右と願って左、左と願って右と言う事もあるけれども、そういう信心修行を合楽理念に基づいてさせて頂いておる内に、信心三昧というかね。
 三昧境が開けてくる。有り難いなぁと言う事になって来る。それをなら堤防の上から見ておるだけではいけない。成程「おかげは受け徳、受け勝ち」とは、こう言う事だなとその時分からせて頂いた。だからなら先生どうぞお願いしときます。ち言うちからもうそれでよかっちゃなかよ、ち私が呼びとめます。そう言う様な人には。又明日から参ってこにゃいかん。という訳なんです。そして自分もその釣る気にならなければいけない。あるご信者さんが、そういう御理解を頂いて、何日かしてからお夢ば頂いた。
 2階からこうやって、前に流れておるどぶ川で魚ば釣りよる。2階から。それで手応えがあったけん、上げて見た所がそれは何とウナギじゃった。はぁ是はウナギがかかったと思うて引き上げたら、それが何とウナギじゃなくて、蛇であったというのです。だからもうその2階からどんこうやって釣るごたる、しかもどぶ川でどん釣っとっちゃ、ほんなもんじゃないと言う事。
 本当に釣ろうと思うなら矢張りお広前が、それこそ道念心じゃないけれども、ね、親先生の顔を一日、なら見らんならば、過ごされん位にいっちょならなきゃいけません。宮崎の方達が沢山参って来ております。もう本当に始めは一遍であったのが、二偏が三遍になり。もうとにかく合楽、そげんお参りをするとに、前ん日から休まれんぐらいに、胸がドキドキするぐらいにある。
 そういう言わば道念心を持って、お参りをして来るからなら宮崎の地にそれこそ、もうただほんな事じゃあるかと言う様な、矢張りおかげも現れておる訳であります。一番私は大事なのはね、神様へ対するそういう道念の心。それが大祓い信行なら、大祓い信行一生懸命させて頂きよるとです。神様と言わばもういたわしい、もう神様が何と言うかね、もう神様が恋しゅうなって来るんです。
 若先生が本部で修行中にただ今あの、神様と恋愛中だと。夜な夜な学院は、抜け出しちゃでけんとの事です。と夜中に教祖様の奥城に行ってから一生懸命拝む訳ですね。いうなら御祈念をする。もう毎晩毎晩いくら誰がそれこそ止めてもです、もうこっそりと抜け出してでも、いって拝まにゃおれないような、そういう心が育って行く事が、信心であると同時に、そういう心がさっきから申します、例えばどういう真っ暗い、要らんごたる蓮根の、いうなら節の所でもです。
 そこを折れんようにそこを貫け切る所のおかげが頂かれる。それを切って捨てるこげな事はいやだと言った様な事では、合楽理念に悖るのです。合楽理念に基づかなければ、一つ一つの何ですか、思い込みです商売をさせて頂いておる人が、もう合楽理念を持ってするより他にはないと思い込めたら、それこそ輝かしいまでのおかげになって来るでしょう。もう百姓は合楽理念を持ってする以外はないと分かったら、もうそれこそ作物の上に、目を見張るようなおかげを頂く事でしょう。
 いうなれば主婦の方達がです、家庭のいうなら世界生活もです、人間関係ももう合楽理念を持ってする以外にはないと分かる所まで、合楽理念を血に肉にして行きたいと思います。振り返って見ると、合楽理念どころではない。それこそ私の言う事は聞いてはいない。それでは何時まで経っても、もう本当のおかげにならん。願いと言う事は誰でも願いを持たない者はありません。
 誰でも持っておりますけれども、その願いに筋道を立てなければならない。桂先生の言うならばこの大、夏の祈願祭もです、そういう筋道立てた神様にちょっと理屈、理屈っぽく言いよったら( ? )ですね。「飛ぶ鳥も翼なしには飛べません」だからそのおかげを下さい。けれどもそのおかげをです、自分の私欲の為ではありません。こういうお役にも立ちたいの一念からですからという筋道が立った。
 そういう信心を私共は頂いて、そしてそれが段々言うならば、浄化された上にも浄化されて、今日では言うならばあらゆる皆さんの先生方が、残された信心を一つの基盤として、そして新たな、いうならば金光教の、言うならば曲がり角といわれる。その曲がり角を間違いなく、言うならば合楽で受けておる様なおかげ。又はビリグイでおかげ頂いておる様なおかげがです、全国津々浦々にある所の。
 教会の上にも信者の上にも頂けるようなおかげを頂く為に、皆さんが先ずは合楽理念をマスターし合楽理念を行じて、こういう輝かしいおかげを頂いたと人に伝えて行く。言うなら実意丁寧愛の心を持って伝えて行くと言う事になればです、言うならばおかげを言うならば引っさげて見せて、見せながら言うならば信心を示現して行く進めて行く。そこには神仏の不思議な不思議な働きがとものうて来るというのが、示現という意味だそうです。そういう思いになる時に神様が。
 どうでも大きなおかげを頂かなかったら、人がこうやって見上げてくれません目も見張りません。ただ金光様の信心でおかげ頂いております、どげなおかげのっち言われたっちゃ、その私は心の中にこげん有難いものば頂いておる、見せられんからね。だから心の中のものがそのまま形に現れて、しかも見上げるようなおかげになって来なければいけません。只今私今今頂いた事はねあの小さい筆では小さい字しか書けない。大きな字を書こうと思うなら大きな筆でなからなければならないように。
 私共が大きなおかげを頂きたいと思うならば、先ず自分の心が愈々豊かに大きくなり、そして同じ願うならば大きな願いを、立てさせて頂かなければならんと言う事で御座います。願いと言う事はもう今日の一日の事だけではありません。愈々ご祝詞の中にも申しましたように、十月の十六日はここが誕生して十年という、輝かしい記念の年で御座います。一つそれまでの、一つの何か是なら神様がもう間違いなしに聞いて下さるに違いはないという、願いを立てて十年祭を又、迎えたいと思うので御座います。
   どうぞ。